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守谷の文化財 守谷の歴史概要

 

 守谷の地名の起こりは、人皇12代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときにこの地を通り、うっそうたる森林が果てしなく広がっているのを見て嘆賞せられ、「森なる哉(かな)」といわれました。これを漢訳して音読し「森哉(もりや)」となったという説があります。また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深くして守るに易き地ということから、守るに易き谷、転じて「守谷」となったという説がありますが、このことについては、はっきりしたことは判明していません。しかし、そのころの守谷は森がうっそうと茂り、その両側には入江が深く入り込んで、早くから人々が集まったところであったと思われます。
 近世の守谷町成立の基礎が築かれたのは、土岐山城守定政(ときやましろのかみさだまさ)によってでした。定政は、豊臣秀吉の後北条氏征伐により、後北条氏と運命を共にして没落した相馬氏の遺領に、天正18年(1590)守谷1万石の領主として封ぜられました。初代守谷城主として入城した定政は、遺領の復旧を図ると共に、城下町としての町づくりに努めたため、守谷は周辺の村落とは異なった環境を呈し、それはやがて「町」を形成する基盤となったのです。それから天和元年(1681)最後の城主酒井忠挙(さかいただたか)が転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみましたが、その後関宿藩久世(くぜ)氏の領地になり、城下町でなくなってからは衰微して周辺の農村と全く同じような環境となってしまいました。
時を隔てて明治元年(1868)、王政復古による明治新政府の発足後、下総、葛飾県に、そして明治4年(1871)廃藩置県施行後、印旛、千葉県の管轄下となり、明治8年茨城県の管轄下に編成され、明治22年の町村制施行を受けて、現在の守谷市を構成する旧守谷町・高野村・大野村・大井沢村の1町3カ村が発足しました。
 一方、経済・文化面においては、大正2年11月1日に開通した常総鉄道が、水運に変わり運輸交通の柱となり、その飛躍的な発展をもたらしました。さらに、昭和30年3月1日、当時の守谷町・高野村・大野村・大井沢村の1町3カ村が合併して「守谷町」が誕生し、昭和41年首都圏近郊都市として発展を続け、昭和60年に発表された常磐新線がさらに守谷の発展を確実なものとしました。
 このような中、平成14年2月2日には守谷市となり、常磐新線や守谷駅周辺地区の整備等により茨城県の玄関口、常総地域の中核都市としての期待が高まっています。

茨城県になるまでの変遷
明治8年 明治6年 明治4・5年 明治2・3年 町村名
茨城県 千葉県 印旛県 関宿藩 守谷
葛飾県 赤法花
同地
奥山新田
関宿藩 辰新田
葛飾県 小山
高野
鈴塚
乙子
野木崎
大柏
立沢
板戸井
大木
大山新田

守谷市になるまでの変遷
平成14年2月2日 昭和30年3月1日 明治22年4月1日 町村名
守谷市 守谷町 守谷町 守谷
赤法花
同地
奥山新田
辰新田
小山
高野村 高野
鈴塚
乙子
大野村 野木崎
大柏
大井沢村 立沢
板戸井
大木
大山新田

 

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