| あ |
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一里塚は、昔旅人が運賃を決めたたり、休憩したりなど、便利のために作られました。道路の脇に一里(約4キロ)ごとに土で塚を作り、その上に榎や松を植えたようです。
江戸時代に東京から笠間市までの道路を笠間街道と呼びました。笠間の殿様が参勤交代のとき、行列を作って通ったと伝えられています。
明治になってから、道路は広げられたり変更したために壊され、現在残っているのは極めて少ないので、市では赤坊花の一里塚を文化財として指定しています。 |
| い |
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元和元年(1615)9月、時の天下の将軍徳川家康公は鷹狩りのため、家来とともに野木崎に来て、椎名家に3日間滞在したといわれています。その頃は、洪水期でしたので、利根川が氾濫して渡船が困難になりました。その時、家康公は船頭に対して、「我慢をして舟を渡してくれ」と懇願し、船頭が我慢をして船を渡したので家康一行は無事千葉県側に渡ることが出来たといわれ、それ以来、この渡しを「我慢の渡し」と呼ぶようになったと伝えられています。 |
| う |
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縄文時代(約1万年以上)前の頃、守谷の台地以外の低地で海か、沼か、湿地でした。人々は、台地の南側に住んでいました。山野で鳥や獣を狩り、海や川で魚を捕らえて生活をしていました。
食べた貝の殻などを1ヶ所に捨てた所が、貝塚といわれ、その中から動物の骨や石器などが出土することもあります。 |
| え |
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八坂神社所有の絵馬は、慶応2年(1866)に守谷の斉藤徳左衛門、斉藤藤兵衛、平尾丈助、伊勢屋平八、和田屋三右衛門らが奉納しました。
作者は、狩野派の画家狩野友信です。八坂神社の祭神である素盞鳴尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したという神話に基づいた勇壮な図柄が描かれています。
昭和57年(1982)に市の文化財に指定され、保護されています。 |
| お |
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乙子集落のほぼ中央に位置する石神神社は、大日比谷維奈尊闇(オオイビヤイナノソンジャ)を祭神として享和3年(1803)に創建されました。人工の塚の上に本殿、麓に拝殿が建てられ、その塚の下には、一丈二尺(約3.6メートル)の石棒のご神体が埋められていると伝えられています。
明治末から昭和初期にかけて、近隣の市町村だけでなく、近県や東京からも大勢参詣に訪れ、子孫繁栄などを祈願しました。
当時は、毎月の例祭、3月と8月の大祭などで賑わいましたが、今は往時の盛況はありません。
また、本殿の龍の彫刻は見事です。 |
| か |
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屋敷林は、農家などが、その周囲、主に北または西側に仕立てた杜で、風除け・砂塵除け、気候調整などの役目があります。
また、火災や外からの見透かしを防ぐとともに、住宅に趣を添える役目もあります。
屋敷林の落ち葉、下草は肥料や飼料に、枯れ枝は燃料に、木立は備蓄用材とされました。近年は、かやぶき屋根の家や屋敷林を見かけることが少なくなりました。 |
| き |
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滝下橋は、昭和31年(1956)に完成しました。橋が架けられるまでは、渡し船を利用し、子どもたちも船で通学していました。
鬼怒川は、昔重要な水路で、江戸時代には水運を利用して江戸との交流が盛んでした。滝下の渡しには、茶屋などがあり、賑わいました。
また、西大木の辺りでは、10月頃になると、カチガケという漁法で、鮭が上ってくるのを川に飛び込んで捕らえていました。
鬼怒川滝下の美しい景観は、昭和25年(1950)茨城百景に選ばれました。 |
| く |
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九曜の紋は、少し大きい丸型の(太陽)を中心にして、8個の小さな丸型(月・火・水・木・金・土の星と釈迦・不動様)が囲んで出来ている家紋です。
海禅寺・長龍寺・永泉寺には、この九曜の紋がついています。九曜の紋は、宇宙を支配する星を守り神とした信仰から生まれたものです。
平将門は星を信仰していたため、将門に関係のある寺や神社には、九曜の門がついているようです。
また、将門は、守谷地方を信仰の地域とされたと伝えられています。 |
| け |
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悠々と流れる鬼怒川と利根川が合流する地点、剣先は雄大な自然が広がり、喧騒を忘れさせてくれます。
鬼怒川の右岸には、大木流作の集落があり、利根川と合流する地点までは、ほぼ、三角形の低地となっています。
現在は、緑の牧草地が広がっています。「水と緑のまち 守谷」が偲ばれます。 |
| こ |
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郷州原遺跡は、郷州原台地にあり、昭和53年(1978)みずき野団地造成のために調査され、縄文時代前期の住居跡・貝塚、そして古墳時代の住居跡等が発掘され、土器・土師器、須恵器及び三彩陶器が出土しました。
なお、守谷小学校に保管の土・石器等の埋蔵文化財は、(故)石田庄七氏(愛宕)が郷州(現みずき野)の所有の山林中から発掘し、教育資料として寄贈したものです。氏は、昭和13年(1938)そこに発掘記念碑「現日本人発祥の地」を建てました。 |
| さ |
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守谷城址南方にある西林寺は、しだれ桜が見事です。天保元年(1830)の書状によると寺域3万坪、朱印地20石で門末48ヶ寺を有したと言われています。1月3日に護摩供、8月15日に施餓鬼会が行われます。
境内には小林一茶の句「行く歳や空の名残りを守谷まで」の句碑があります。一茶は、住職鶴老の時代、当寺に長く滞在し、文人墨客を交えた句会がさかんであったと伝えられています。 |
| し |
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高野の海禅寺は承平年間(931から937)、平将門が守谷に王城を建てたとき、京都になぞらえようと紀州高野山金剛峰寺をモデルに創建した寺と伝えられます。
また、この寺には、将門及び7人の影武者(七騎武者:将門を守る7人の侍)の墓と相馬氏の位牌があります。これらは、江戸時代のものと見られますが、その中の一基は、室町様式と推測されています。、 |
| す |
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スダジイ(椎)はブナ科の常緑樹で、我が国では中部以南の比較的暖かい地方に生育しています。ここ海禅寺の本堂裏にあるスダジイは北限に近いものとされ、樹齢250年、木の周りは4.9メートル、高さ25メートルの巨木で、天然記念物として市の文化財に指定されています。
また、境内には、将門の子孫ともいわれる相馬家の家紋の「つなぎ駒」を掘り込んだ墓があり、今なお、将門を偲ぶ人々が遠方から墓参りに訪れています。 |
| せ |
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将門がかつて、京都にいた頃、藤原純友と親交を結び、将来互いに志を得れば、兵乱を起こすことを約束したといわれています。やがて、純友は伊代で、将門は東国下総でそれぞれ兵を挙げることになりました。
その挙兵に先立ち、純友ははるばる東国に下り、将門とともに大鈴を埋めて塚を築き、お互いに戦勝祈願を行ったと言われています。それ以来、この地を鈴塚と呼ぶようになったとも伝えられています。 |
| そ |
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昭和50年(1975)7月、高野の成田不動明王石碑に、人の顔が写っているのを近所の小学生が発見しました。石碑の前で遊んでいて「人の顔が写った」ということでした。
ちょうどお盆の頃で、その噂が広まり、やがて、テレビ・週刊誌等でも報じられ、全国各地から見物客が殺到しました。このお化けは、成田の不動様に戦勝祈願をした藤原秀郷に首を討ち取られた将門の無念の恨みによって起こった現象という話もあります。 |
| た |
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海禅寺の縁起は寛文4年(1664)守谷1万石の領主堀田備中守正俊が寄進したものです。
その縁起によると、将門は延長8年(930)京都から相馬御厨の下司(徴税役)となって帰り、承平元年(931)父良将の供養のため、紀州の高野になぞらえて地名を高野とつけて建立した寺です。この辺りは相馬御厨(皇太神宮の御領地)の中心であり、将門の母や弟(将頼)が住んでいたようです。この頃が、将門の生涯にとって、一番心の安らいだ時であったと思われます。 |
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天正18年(1590)小田原城の北条氏政・氏直は、豊臣秀吉の大軍に滅ぼされました。北条氏の配下にあった守谷の相馬氏は、秀吉の命を受けて進攻した浅野弾正弼長政(あさのだんじょうしょうひつながまさ)・木村常陸介重滋(きむらひたちのすけしげます)によって滅ぼされました。
その時、浅野等は、長龍寺に滞在して、この地方の治安のため、禁制令を出しました。
その内容は、軍兵が乱暴したり、作物を取ったりして、この禁政令にそむく者は、厳重に処罰するというものでした。
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昔、船着場で栄えた野木崎の河岸を「下の河岸」といいます。明治23年(1890)に利根運河が開通してから「下の河岸」は一層栄えました。明治10年(1877)頃から船運が飛躍的に発展して、脚光を浴びたのは「通運丸」です。大きさは、長さ21メートル、幅3メートル、深さ13メートル、20馬力の蒸気機関をつけ、船の両腹の巨大な水車を、まきを燃料として回し、自足は12キロでした。
鉄道の普及によって、大正8年(1919)頃、姿を消しました。 |
| て |
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塾鉄製海老は、鋼鉄で作られた金属工芸品で、市の文化財に指定されています。作者は、土浦藩に仕えていた甲冑師の明珍宗矩です。
明珍家は、室町時代に鎧・兜・鍔などをつくる家柄で、江戸時代には明珍の姓で、各藩に仕えて武具の制作を業としていました。宗矩もその一人で、明治維新後に甲冑を作る技法を活用して、この工芸品を制作したものです。(野木崎:染谷家所蔵) |
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野木崎の正安寺にある寅薬師如来は像は、室町時代の作品で、市の文化財に指定されています。寅薬師如来の霊験は、特に目の病に良いといわれ、「瑠璃水」という目薬が施されました。(現在は、薬事法の改正により廃止)
さらに、あらゆる病気や心の悩みまで治すという薬師経の教えから、戦前までは、利根川の水運を利用して遠くから参拝者が訪れ賑わっていました。
この寅薬師如来の御開帳は、12年に一度の寅年に行われています。 |
| な |
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八坂神社の祭りは、守谷の夏の風物です。神輿(みこし)が地区内を練り歩き、笛や太鼓のおはやし連を乗せた山車(だし)が祭りを盛り上げます。この祭りは、地区ごとに大のぼりをたてることから「のぼり祭り」とも言われています。八坂神社の祭神はスサノオノミコトで、平安時代に創建されたと伝えられています。
境内には、樹齢100年を越えるといわれる大いちょうが数本有り、守谷の歴史を見続けてきました。
この祭りは、毎年7月の最終土曜日に行われます。 |
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明治神宮が創建されたのは大正5年(1916)10月のことです。昭和2年(1927)、明治神宮の誕生日(11月3日)が「明治節」に定められてから、祭礼もこの日に行われるようになりました。
祭礼がもっとも賑わったのは大正中期から昭和初期の時代で、戸板の上に商品をのせた天張(てんぱり)の露店がびっしり並び、剣道の試合や居合抜き、草相撲、ひょっとこ踊り、夜は綱火も行われ、冬支度に取りかかる前の束の間、人々は夜明けまで祭りを楽しみました。 |
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永泉寺の縁起によると、延暦年間(782から805)相馬政安が建立し、開山したのは西賢太子(せいけんたいし)です。
将門は承平年間(931から937)、戦の度に6個の土偶を作り、自分と同じような格好にして馬に乗せ、どれが将門であるか見分けがつかないようにしたともいわれています。
藤原秀郷に攻められたとき、将門はこの土偶を捨てて逃げました。この土偶を安置して永泉寺と名付けたとされています。
後に徳川3代将軍家光より、寺領3石5斗余りの朱印地を賜りました。 |
| ね |
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利根川を臨む高野根切りの高台の景勝地に、地元の人々から「せんげんさま」と呼ばれ、親しまれている神社があります。祭神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ:静かな事を好む女神)で平安時代、大同年間(806から809)に坂上田村麻呂(サカノウエタムラマロ)が創建したものといわれています。
昔、村の祭りは、若い衆の集いの場となり、若者達は力自慢をしたそうです。この時、力試しに使われた石には、表面に重量、16貫・20貫・70貫等(1貫は3.75キロ)が彫られています。 |
| の |
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河岸とは船着場のことで、明治・大正の頃、高瀬船や蒸気船「通運丸」が頻繁に寄航し、野木崎の河岸は荷物や人々で大変賑わっていました。
この当時、トテ馬車という定員10名ほどの乗合馬車が、シンチュウ製の笛を鳴らして走り、現在の路線バスのように停留所を回って人が乗り降りしていました。笛の音が「トーテー」と聞こえたことから、トテ馬車と呼ばれて人々に親しまれ、当時の重要な交通手段でした。 |
| は |
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徳川家康の画像は、旧徳川家や寺院にいくつか残されています。西林寺は上野寛永寺の末寺であった関係でその中の一つが残され、昭和48年(1973)市の文化財に指定されました。
江戸時代の偉いお坊さん天海大僧正がこの絵を誉めたと言われています。また、中庭の悠然とした姿のしだれ桜は、一幅の絵を見るような美しさです。 |
| ひ |
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昔は、米や酒などを四角い木で作られた枡を使って量を量っていました。
戦国末期、兵士の多くは農民で、鎧を身に付け、剣や槍を持ち、馬にまたがり城に駆けつけました。
一刻を争うとき、城に集まった兵士の数を数えるのに、人枡という四角い広い空き地に兵士達を入れ、いっぱいになれば、隊を作り順次、戦地に向かって出陣したと伝えられています。
現在、守谷小学校内にある一つの遺構が、この人枡ではないかといわれています。
※以前は3つの遺構があった。 |
| ふ |
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八坂神社の大祭(7月最後の土曜日の本祭り)や季節ごとの各地の祭りに青年や小・中学生達が笛や太鼓のリズムに合わせた踊りを奉納します。
「ひょっとこ」や「おかめ」の面を付けて、踊る独特の仕草が面白おかしくて輪になって眺める人々から笑顔がこぼれます。
このような伝統芸能がいつまでも引き継がれていくよう、地区の人たちが子供たちを指導しています。 |
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平将門は平安時代中期の武将で、桓武天皇のひ孫、高望王(たかもちおう)の孫、平良将(たいらのよしまさ)の第2子といわれ、母は下総の豪族犬養春枝(いぬかいはるえ)の娘と伝えられています。
天慶2年(939)11月常陸の国府制圧を機に、関八州[下野(しもつけ)、上野(こうづけ)、相模(さがみ)、常陸(ひたち)、安房(あわ)、上総(かづさ)、下総(しもうさ)、武蔵(むさし)]の制圧を企て、下野・上野を攻略後、八幡大菩薩の神託を得たとして新王と称したが、翌年2月、平貞盛(たいらのさだもり)・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)等に討ち取られました。将門の伝説は、関東一帯に伝えられています。 |
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両側が、台地や山に挟まれて、低く窪んだ地形の細長いたんぼを谷津田といいます。そこには、雨が山や台地から流れ、きれいな水となり、蛍の幼虫の餌となるカワニナ(巻貝の一種)が生息していました。幼虫は、カワニナを食べて成長します。
近年は、農薬等を使うようになり、カワニナが育たないため、蛍が見られなくなりました。
昔は、夏の夜、暗くなると子どもたちは、蛍の小さな明かりを追いかけて竹ほうき等を持って賑やかに追いかけたものです。 |
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守谷から谷和原方面に至る県道に、樹齢300年を経た昔を偲ぶ末並木があります。この道路は、昔、銚子街道と呼ばれ、下館から水海道、守谷、取手、我孫子方面を経て銚子に通じていました。
末並木は、時の幕府の奨励により、守谷藩が元和6年(1620)に植えられたもので、昔の人のすばらしい生活の知恵が伺えます。
享保20年(1735)頃、地元住民に払い下げられ、伐木して村費に充てられたりしていたようです。近年、マツクイムシの被害に遭い、今は貴重な存在になっています。 |
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野馬追いは、放牧してある野馬をすばやく捕らえる行事で、武装した武士が訓練の一環として行う勇壮な行事です。相馬野馬追いは
、平将門が野生の馬を捕らえて妙見郭(妙見神社)に奉納したのが始まりと言われています。
その行事を守谷城主の相馬氏が継承しました。今では、この行事はすっかり滅び、代わりに守谷から分かれて移住した相馬氏により、奥州(福島県)の地で毎年7月末に行われ、全国的に有名になっています。 |
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大円寺は、大木の高台にあり、枝を広げたムクノキに抱かれた鐘楼の夕映えは見事です。創建は推古天皇(593から628)の時、悦翁が開山したと伝えられています。
本尊は釈迦如来で、ケヤキの一木造りの座像です。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての作で、地元では根釈迦様と呼ばれ、親しまれています。昭和48年(1973)11月、市の文化財に指定されました。 |
| め |
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赤坊花の染谷家は、代々名主を務めた家で、名主役として地方記録の保存に努めてこられました。
特に「御用留」は、享保10年から明治16年(1725から1883)まで158年間に渡り、110冊以上にも及ぶ江戸時代の地方行政を研究する上で重要な資料として残されています。
これらは、古文書一式として、市の文化財に指定され、茨城県立歴史館に寄託してあります。 |
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「守谷」の地名の由来は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征のおり、この地を通り、うっそうとした森林が果てしなく広がっている風景に「はるかなるや森なる哉」と嘆賞され「森哉」とした説があります。
また、将門がこの地に築城したという伝説がありますが、この時に「丘高く谷深くして守るに易き地」から「守るに易き谷」が転じて「守谷」となったという説があり、どちらともはっきりとはしていません。
当時の守谷は深い森が続き、大地の両側に入江が入り込み、海上交通の拠点としても繁栄していたようです。 |
| や |
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昔、同じ名字の家が多かったため、屋号で呼び合いました。屋号には、例えば、職業からなったものとして酒屋(サカヤ)・籠屋(カゴヤ)など。いわれからなったものとして、閑居(かんきょ)・新宅(シンタク)など、また、先祖の名前からなったものとして七兵衛(しちべい)・又左衛門などがあります。今でもこの呼び方が続いています。
なお、農繁期に隣近所の農家が、日時を決め、順番にそれぞれの家の農作業に協力し合う習慣があり、これを「結(ゆい)」といいました。 |
| ゆ |
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山里に、白く咲く山百合の姿は、清楚で凛とした感じがあります。その上、芳しい香りを漂わせて自主自立の高貴な人のようでもあります。
家庭の屋敷内に朝夕、ヒナを連れて集う小綬鶏(コジュケイ)の姿は、家族仲良く、一家が繁栄する姿に似ています。
いつも変わらない緑の松は枯れ落ちても二つの針葉が固く結びついて、夫婦相愛の姿に似て人生の幸福の基本をあらわし、3つとも市のシンボルとなっています。 |
| よ |
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繭(マユ)を採るために蚕に桑の葉を与え育てることを養蚕といいます。蚕の口から出た糸は絹糸となり、絹織物は高級な生地として扱われていました。
岩田太郎は、明治半ばに父の跡を継いで、蚕種の製造に従事し、四化性蚕種(春蚕・夏蚕・秋蚕・晩秋蚕)の製造飼育を普及させ、養蚕講習所を設立し、人材養成に努め、地方蚕業の発展に貢献しました。その功績をたたえ、地元高野小学校に功徳碑があります。 |
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大八洲開拓団は、昭和14年(1939)大陸開拓の先駆者として満州(中国)へ渡りました。終戦後の混乱と失意の中、昭和21年(1946)9月に満州から引き揚げ、同年、菅生村(水海道市)に入植、23年(1948)6月に大木流作(守谷市)の開拓鍬入れ式を施行しました。
その後、度重なる河川の増水による冠水、作物の流失など、常に災害に悩まされてきました。「偕(とも)に拓き共に築く」と刻まれた開拓の碑からも当時の苦労が偲ばれます。 |
| り |
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明治22年(1889)4月1日「市制及び町村制」が施行され、新しい守谷町ができました。昭和30年(1955)3月1日には、高野・大野・大井沢の3ヶ村が合併しました。
近年では、宅地整備が進められ人口が急増。平成14年2月2日には、守谷市が誕生しました。
このかるたで、守谷の歴史に残る人物や出来事、伝説、貴重な文化財、美しい自然、そしてたくましい庶民の暮らしなど、楽しく学んで大切にしていきたいものです。 |
| る |
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守谷城址は、守谷小学校の北方にあります。城の規模は本郭から6郭まであり、東北面が沼に囲まれた壮大な名城であったと思われます。
現在は、本郭・2郭と先端の妙見郭が残っています。将門が京都から帰郷して館を造り拠点としたという伝承があります。
寿永3年(1184)、相馬師常が初代城主となり築城し(約360年間)栄え、更に徳川家の配下として100年間栄えました。
元禄元年(1688)城主不在となり、廃城となりました。 |
| れ |
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野木崎にある廿三夜尊堂の境内に、神木として植えられたエノキは、現在樹齢300年、直径1.1メートルの大きな木です。均整の取れた美しい枝振りと、根幹が地面より上に浮き上がっている様子が他に類を見ないで、教育的価値が認められ、昭和63年(1988)、市の天然記念物に指定されました。守谷の歴史を見つめながら、人々に涼やかな風を送ってくれています。 |
| ろ |
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大木の六十六所神社(ロクジュウロクショジンジャ)は別名六拾六社(ロクジュウロクシャ)ともいわれています。昔、大木村660番地に建立されたので、この名が付いたと伝えられています。
祭神は大國主命(オオクニヌシノミコト)で応永4年(1397)出雲大社の御分霊をお迎えし、祀られたと記録されています。
昭和55年(1980)頃、神社の氏子達が幸せな生活を願って悪をはらい、福を呼び込む相談がまとまって、毎年節分の日に豆まきを行い大変賑わっていたようです。 |
| わ |
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愛宕神社は、天慶年間(938から946)将門によって京都になぞらえて創建されたと伝えられています。祭神はカグツチノミコトです。
この青銅製の鰐口は、元和7年(1621)11月、守谷の領主土岐内膳介頼行が社殿を再建したとき、その家臣井上九左衛門、加藤久太夫が寄贈したものです。昭和57年、市の文化財に指定されました。 |
| を |
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守谷の地は、比較的自然災害の少ないところですが、秋の豊かな実りを願って、やぐらを組み、老若男女が盆踊りに集まりました。
近頃は、人々に交流の場として各地の夏祭りで盆踊りが行われています。 |
| ん |
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かつての守谷沼は満々と水を湛え、川獺(カワウソ)が生息していたと言われています。川獺は、イタチ科の獣で、四足に水かきがあり、川に住み、魚を捕ります。近くには平将門が鬼門除けよして祀ったと言われる弁天様があり、川獺弁天と名付けられています。
昭和43年(1968)に守谷沼圃場整備事業が完成しました。今は、魚釣りの人々で賑わっています。
また、守谷沼は、守谷城址・北園森林公園と周辺の田園風景と共に守谷30景選ばれています。 |
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