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守谷の文化財 史跡


守谷城址 昭和48.9.8指定 守谷市本町858外
守谷城址  この城を築いたのは俗説では平将門ということになっていますが、実は将門時代より250年から260年も後になってから、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常(もろつね)が相馬一郡を領有してから築いたものといわれています。城は本郭(ほんかく)を中心に二郭(にかく)、三郭(さんかく)をもって構成され、古城沼(守谷沼)に突出した台地です。その通路は通称馬場(ばんば)と呼ばれているところのみでその要害堅固たることは中世期における城郭としてはまれにみるものです。
一里塚 平成2.12.27指定 守谷市赤法花436−1
一里塚  赤法花の一里塚については、染谷家の文書に文政8年(1825)、「当村の内壱里塚壱ヶ所てしこ代と申す所に亥の方塚弐ツ松植え御座候」とあります。この塚の築造年代は明らかではありませんが文政8年以前であることは確実で、現在は庚申塚と称し、塚の頂には庚申塔のほか数基の石造物が建立されています。一里塚を設置した道路は、江戸時代これを笠間街道と称し常陸国笠間に通じる脇往還でした。脇往還とは、本街道に対する支街道のことで、関東地方ではこの街道をはじめ水戸街道、佐倉街道などが挙げられます。
家康水飲み井戸跡 守谷市野木崎1587
家康水飲み井戸跡  徳川家康は、領内の民政の実情を直接見聞するため、鷹狩りをしながら諸国を巡遊していました。家康公の一行は、籠に乗った側室3人、馬に乗った女衆18人、士卒の男衆50人を従えて駿府を出発し、川越・岩槻・越谷等を経て利根川を渡り、野木崎に到着したのは元和(げんな)元年(1615)の9月でした。当時、野木崎の旧家椎名家三代祖椎名親祐氏は、一行を謹厳に迎えました。そのとき、この井戸の水を使用されたので、以来村民はこの井戸を「家康公水飲み井戸」と呼び今日に至っています。その後、この井戸は潰れてしまっています。。
がまんの渡し跡 守谷市野木崎(利根川堤防)
がまんの渡し跡  徳川家康公が、元和(げんな)元年(1615)鷹狩りのため当地を訪れ、野木崎の椎名家に宿泊された時、大雨のため利根川が洪水となり、流水が急なため、船を渡すのが困難な状態となっていました。そのとき、家康公が舟夫に対してガマンをして渡してくれと頼んで川を渡ったので、この渡し場を「がまんの渡し」と呼ぶようになったと伝えられています。当時鬼怒川は、この地には流れていなかったころで、対岸は千葉県野田市水路です。鬼怒川が開削されて、この地で利根川に合流するようになってからは、渡し場は1qほど下流に移されて野木崎川岸(かし)と呼ばれ、明治から大正時代にかけて茨城県南の波止場として栄えました。今から約380年前、天下を治めた大将軍家康公が、武将を引き連れてこの地に参り、数日間滞在されたお礼に田畑9反(たん)9畝(せ)を椎名家に与えられたともいわれています。
今城城址 一部保存 守谷市けやき台(うららか公園)
今城城址  今城の「今」とは、もともとある「古い城」に対して「新しい城=今の城」という意味で高野城(高野要害)のことを指しています。この地域の人は昔から「いまんじょ」と呼んでいます。城の様式は単純素朴にできているので、戦国時代以前に築かれた城と推測され、戦時用の城砦と見られています。興国(こうこく)元年(暦応(りゃくおう)3年・1340)、日本国内が南北に別れて激しく争われていたころ、守谷にいた相馬忠重が、南朝に味方をし、城を築き、北畠顕国(きたばたけあきくに)を迎えたという記録があり、そのときの城ではないかと考えられます。顕国は、その後、北朝軍に攻められ敗退してしまいました。いずれにしても、当時守谷の祖先達は南朝側の見方をし、錦の御旗を立てて気勢を挙げていたことが伺えます。


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