守谷の七不思議

更新日:2015年6月26日

花の咲かない桔梗

 平将門(たいらのまさかど)は、戦(いくさ)のときにはいつも自分(じぶん)にそっくりな七人(しちにん)の影武者(かげむしゃ)を連(つ)れていたので、敵(てき)はどれが本物(ほんもの)の将門なのかわからず、苦戦(くせん)していました。
 そのころ将門と争(あらそ)っていた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)には、桔梗(ききょう)という名(な)のとても美(うつく)しい娘(むすめ)がいました。そこで秀郷は、将門の弱点(じゃくてん)を探(さぐ)るため、桔梗の身元(みもと)を隠(かく)して、将門のお嫁(よめ)さんにしました。
 将門と平貞盛(たいらのさだもり)・藤原秀郷の戦(たたか)いの中で、将門があやまって泥田(どろだ)に落(お)ちると、これを守谷(もりや)の城(しろ)から見(み)ていた桔梗は、貞盛に合図(あいず)を送(おく)りました。そのおかげで貞盛は、本物(ほんもの)の将門を弓矢(ゆみや)で射(い)ることができました。
 この後(あと)、桔梗は城を抜(ぬ)け出(だ)しましたが、追(お)ってきた将門の家来(けらい)に切(き)り殺(ころ)されてしまいました。桔梗が殺されたあたりは、やがてだれいうとなく「桔梗ケ原(ききょうがはら)」と呼(よ)ばれるようになりました。そして、殺された桔梗の恨(うら)みによるものなのか、桔梗ケ原に生(は)える桔梗は、花(はな)が咲(さ)かなかったそうです。
 桔梗ケ原は、現在(げんざい)のみずき野(の)の一部(いちぶ)ということですが、詳(くわ)しい場所(ばしょ)はわからなくなってしまいました。

(村上(むらかみ)春樹(はるき)著(ちょ)『平将門伝説(でんせつ)』ほか)

平将門の影武者については、平将門伝説の七(しち)騎(き)塚(づか)を見てみよう。

シラサギの霊

 今(いま)から400年(ねん)ぐらい前(まえ)の戦国(せんごく)時代(じだい)のことです。現在(げんざい)の取手市(とりでし)下高井(しもたかい)に「高井城(たかいじょう)」というお城(しろ)がありました。殿様(とのさま)は相馬(そうま)胤永(たねなが)といい、守谷城(もりやじょう)の殿様相馬治胤(はるたね)の弟(おとうと)で、武勇(ぶゆう)に優(すぐ)れていることで有名(ゆうめい)でした。
 あるとき、胤永は多(おお)くの家来を引(ひ)き連(つ)れて、守谷(もりや)沼(ぬま)のあたりに狩(か)りに来(き)ました。しかし、この日(ひ)はどうしたことか、一匹(いっぴき)の獲物(えもの)も得(え)ることができません。あきらめて城に帰(かえ)ろうとしたとき、一羽(いちわ)のシラサギが胤永たちの方(ほう)に向(む)かって舞(ま)い降(お)りてくるのが見(み)えました。胤永は「これはよい獲物だ」と弓(ゆみ)を満月(まんげつ)のように引(ひ)き絞(しぼ)り、シラサギに向かってびゅっと矢(や)を放(はな)つとみごとに命中(めいちゅう)。シラサギは宙(ちゅう)をくるくると回(まわ)りながら、地面(じめん)に落(お)ちました。
 この日の獲物はシラサギ一羽だけでしたが、胤永は上機嫌(じょうきげん)で城に帰ると、家来たちと酒盛(さかもり)りを始(はじ)めました。やがて夜(よる)もふけたころ、どこからともなく美(うつく)しい娘(むすめ)が現(あらわ)れ、ひどく悲(かな)しげな声(こえ)で「われはシラサギ 野(の)に住(す)みて 短(みじか)き命(いのち)長(なが)かれと 祈(いの)りもあだに弓弦(ゆみづる)の 矢先(やさき)に消(き)えしはかなさよ」と歌(うた)いながら着物(きもの)の袖(そで)を軽(かろ)やかになびかせ舞い踊(おど)るのでした。そして、舞が終(お)わると煙(けむり)のように消えてしまったのです。
 胤永と家来たちは、この不思議(ふしぎ)なできごとを目(ま)の当(あ)たりにして大変(たいへん)驚(おどろ)きましたが、やがて「これは昼間(ひるま)射止(いと)めたシラサギの霊(れい)が、命(いのち)を絶(た)たれた悲(かな)しみを訴(うった)えるため娘に姿(すがた)を変(か)えて現れたのだろう」ということになり、シラサギが落ちたあたりに小さな祠(ほこら)を建(た)ててやりました。また胤永は、この日以来(いらい)無用(むよう)な殺生(せっしょう)を絶(た)ったということです。
 時(とき)は過(す)ぎ江戸(えど)時代(じだい)になると、だれかがこの祠を建て替(か)え、薬師(やくし)様(さま)をお祀(まつ)りしました。これが今に残(のこ)る奥山本田(おくやまほんでん)の薬師堂(どう)です。

(広報(こうほう)もりや「郷土(きょうど)の歴史(れきし)」(昭和55年8月10日発行号))

血を流す大杉

守谷城址の航空写真
守谷城址(指定文化財)

 安永(あんえい)9年(ねん)(1780)ごろ、守谷城(もりやじょう)跡(あと)は雑木林(ぞうきばやし)や茅原(かやはら)になっていて、二(に)の丸(まる)の北東(ほくとう)のあたりには、一本(いっぽん)の大(おお)きな杉(すぎ)の木(き)がありました。
 宝永(ほうえい)(1751~1764年)のころ、城跡(しろあと)の木を全部(ぜんぶ)残(のこ)らず切(き)ろうとしたことがあったのですが、この木を切り始(はじ)めると傷口(きずぐち)から血(ち)が流(なが)れ出(で)てきたのです。樵(きこり)の人(ひと)たちは皆(みな)恐(おそ)ろしがって、近付(ちかづ)くこともできなくなってしまいました。
 こうして、この杉の木だけが残されることになりました。杉の木を残したおかげでしょうか、だれも祟(たた)られなかったそうです。

(今泉(いまいずみ)政隣(まさちか)著(ちょ)『関宿(せきやど)伝記(でんき)』)

守谷城址(市指定文化財)

寅薬師と御手洗池

寅薬師

 野木崎(のぎさき)の正安寺(しょうあんじ)に祀(まつ)られている寅薬師(とらやくし)如来(にょらい)は、特(とく)に目(め)の病気(びょうき)に霊験(れいげん)(注1)があるといわれています。目の病気にかかった人(ひと)は薬師様(さま)にお参(まい)りし、寺(てら)から少(すこ)し離(はな)れたところにある御手洗池(みたらしいけ)の水(みず)で目を洗(あら)うと、たちまちに病気が治(なお)るというので、お参りに来る人は竹筒(たけづつ)に水をもらうのが習(なら)わしだったということです。 
 また、今はありませんが、御手洗池の水で瑠璃(るり)水(すい)という目薬(めぐすり)をつくっていました。

  (注1)霊験 人の祈(いの)りや願(ねが)いに応(おう)じて神(かみ)や仏(ほとけ)が示(しめ)す不思議(ふしぎ)な力(ちから)の現(あらわ)れ

(広報もりや「郷土の歴史」(昭和55年6月10日発行号))

寅薬師如来(市指定文化財)

玉屋の離れ座敷

 明治(めいじ)10年代(ねんだい)のころのことです。守谷(もりや)近辺(きんぺん)に取(と)り引(ひ)きを持(も)つ東京(とうきょう)の商人(しょうにん)が、盆(ぼん)の月(つき)に集金(しゅうきん)に回(まわ)り、玉屋(たまや)という料理(りょうり)旅館(りょかん)に泊(と)まることになりました。玉屋ではなじみの客(きゃく)だったので奥(おく)の離(はな)れ座敷(ざしき)に通(とお)したのですが、それがかえってあだとなってしまって、商人(しょうにん)はその夜(よる)忍(しの)び込(こ)んだ賊(ぞく)に襲(おそ)われ、集(あつ)めたお金(かね)も奪(うば)われてしまいました。
 さて、利根(とね)川(がわ)の反対側(はんたいがわ)の木(き)野(の)崎(さき)村(むら)に、山崎(やまざき)宗右衛門(そうえもん)という廻船(かいせん)問屋(どんや)(注1)がいました。東京の商人はこの廻船問屋とも取り引きがあったので、昼間(ひるま)立(た)ち寄(よ)っていたのですが、商人が襲われた夜、宗右衛門は恐(おそ)ろしい夢(ゆめ)を見(み)たのです。それは、東京の商人が血だらけの姿(すがた)となって枕元(まくらもと)に立(た)ち、「宗右衛門さん。わたしはこんな姿になってしまった」と悲(かな)しげな声(こえ)でいうと、姿を消(け)したのです。
 次(つぎ)の日(ひ)の朝(あさ)、知(し)らせを聞(き)いた宗右衛門が玉屋に駆(か)けつけると、商人は虫(むし)の息(いき)で生(い)きていましたが、間(ま)もなく亡(な)くなりました。
 この事件(じけん)以来(いらい)、玉屋の離れには亡霊(ぼうれい)が出(で)るといううわさが立(た)ったそうです。なお、この玉屋は八坂神社(やさかじんじゃ)のとなりにあったもので、現在(げんざい)下町(しもまち)にあるニュー玉屋とは関係(かんけい)ありません。

 (注1)廻船問屋 江戸(えど)時代(じだい)、船(ふね)の積(つ)み荷(に)の取(と)り扱(あつか)いをした業者(ぎょうしゃ)

(広報もりや「郷土の歴史」(昭和46年6月10日発行号))

三夜様の榎

エノキ

 地元(じもと)では「三夜様(さんやさま)」と呼(よ)ばれている野(の)木(ぎ)崎(さき)の廿(にじゅう)三(さん)夜(や)尊(そん)の境内(けいだい)に、大きな榎(えのき)があります。あるとき、木(き)登(のぼ)り自慢(じまん)の若者(わかもの)が、この木に登ることになりました。すると足(あし)をすべらせ、落(お)ちて死(し)んでしまったのです。しばらくして別(べつ)の若者が登ることになりました。今度(こんど)は足をすべらせないようにロープをかけて登ったのですが、そのロープが切(き)れて落ちてしまいました。またしばらくして、別の若者が「鎖(くさり)ならば切れることはないだろう」といって鎖を使(つか)うことにしたのですが、それも切れて落ちてしまったのです。これは榎の祟(たた)りだということになって、木に登る者はいなくなりました。
 現在(げんざい)この榎は、守谷市(もりやし)指定(してい)の天然(てんねん)記念物(きねんぶつ)です。絶対(ぜったい)に登らないでください。

エノキ(市指定文化財)

高野のお化け石

守谷のふるさとかるたのお化け石の画像
お化け石(守谷のふるさとかるた)

 昭和(しょうわ)50年(ねん)の夏(なつ)、高野(こうや)の仲坪(なかつぼ)地区(ちく)にある不(ふ)動(どう)明(みょう)王(おう)の石碑(せきひ)に「人(ひと)の顔(かお)が映(うつ)っている」として、大変(たいへん)な騒(さわ)ぎになったことがあります。
 ある日(ひ)、石碑の前(まえ)で遊(あそ)んでいた小学生(しょうがくせい)の女(おんな)の子(こ)が「石(いし)に顔が映っている」と言(い)い出(だ)したのがきっかけとなり、近所(きんじょ)の人たちが次々(つぎつぎ)に見(み)にいくようになりました。ある人は髪(かみ)の長(なが)い女性(じょせい)が見えると言い、ある人は老人(ろうじん)の顔だと言いました。やがて噂(うわさ)が噂を呼び、7月に入ると新聞(しんぶん)や週刊誌(しゅうかんし)、テレビのワイドショーでも毎日(まいにち)のように「高野のお化け石」として報道(ほうどう)されたので、大勢(おおぜい)の見物客(けんぶつきゃく)が押(お)し寄(よ)せたのです。
 見物客の中には石碑にお賽銭(さいせん)をあげる人がいて、だいぶたまったある時(とき)、このお賽銭が箱(はこ)ごと盗(ぬす)まれてしまいました。ところが、盗まれて1週間(しゅうかん)ほどたったころ、お賽銭を返(かえ)しに来(き)た人がいました。その人の話(はなし)によると、お賽銭を盗んだ人がその後(ご)バイクで交通(こうつう)事故(じこ)を起(お)こし、「これはお化け石の祟(たた)りだろうから、代(か)わりにお賽銭を返して来てくれ」と頼(たの)まれたというのです。
 こんなことがあって、8月になるとますます見物客が増(ふ)えたのですが、秋風(あきかぜ)が吹(ふ)くころになると訪(たず)ねてくる人もめっきり少なくなりました。そして、だれかがスプレーで落書(らくが)きすると、それ以来(いらい)顔は見えなくなってしまったということです。

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