更新日:2015年1月23日
平将門(たいらのまさかど)は平安時代(794年から1185(1192)年の約390年間)の中期に関東で活躍(かつやく)した武将(ぶしょう)です。
関東には平将門の伝説が数多くあり、私たちの住む守谷にも多くの伝説が残されています。
ここでは、守谷に伝わる将門伝説を紹介します。
将門伝説 | 内(ない) 容(よう) | 関連(かんれん)するページ |
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七騎塚(しちきづか) | 平将門(たいらのまさかど)には七人もの影武者(かげむしゃ)がいたといわれており、守谷の海禅寺(かいぜんじ)には、平将門と七人の影武者の供養(くよう)のために建てられた塔(とう)があります。 | 文化財 |
御霊山(ごりょうやま) | 天慶(てんぎょう)年間、平将門(たいらのまさかど)は七人の影武者(かげむしゃ)をたてて、敵の目をくらまし勝利をあげていましたが、とうとう討(う)たれてしまいました。当時の住民たちは影武者をかわいそうに思い、現在の大木の丘の上にまとめてお墓をつくりました。そうして、御霊山と呼ばれるようになったそうです。 | |
鈴塚(すずか) | 平将門(たいらのまさかど)は関東で、藤原純友(ふじわらのすみとも)は瀬戸(せと)内(ない)海(かい)で乱を起こしました。この二つをまとめて承平(じょうへい)天慶(てんぎょう)の乱といいます。この二つの乱はほぼ同時期に起きたので、二人が手を組んでいたという話があります。 平将門が兵を挙げる前に、藤原純友ははるばる将門の元を訪れたそうです。そして大鈴を埋めて塚をつくり、おたがいに戦の勝利を祈ったといわれています。 |
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寅薬師(とらやくし)如来(にょらい) | 平将門(たいらのまさかど)が太公望(たいこうぼう)(中国古代王朝の周の政治家呂尚(りょしょう)の別名)の用いた「虎(とら)の巻(まき)」を夢のお告げで手に入れました。そこで、王城の寅(とら)の方(東北東かやや北)に御堂(みどう)を建てて、寅薬師をまつりました。現在、正安寺(しょうあんじ)に寅薬師如来があります。 | 寅薬師如来 正安寺の寅薬師如来を見てみましょう。 |
赤法花(あかぼっけ) | 平将門(たいらのまさかど)が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁(かべ)が、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。 | |
板戸井(いたどい) | 承平(じょうへい)、天慶(てんぎょう)(931年から946年)のころ、平将門(たいらのまさかど)が東国に兵をおこしたとき、相馬地方に七つの井戸を掘って、万が一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っています。その一つがこの地の井戸といわれており、そこから板戸井という地名が付けられたと伝えられます。 | |
隠(かく)し穴(あな) | 承平(じょうへい)年間、平将門(たいらのまさかど)が守谷に城を建てたとき、万が一の場合に備え、本城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしたそうです。その抜け穴の出口を落(お)とし口(ぐち)といいました。それが乙口(おとぐち)に変わり、さらにそれがなまって乙子(おとご)に変化し、地名となったそうです。 | |
興世王(おきよおう)の分城 |
天慶(てんぎょう)元年(938年)平将門(たいらのまさかど)は高野に興世王の分城を建て、今城(いまんじょ)と名づけたそうです。今城とは、今(いま)造(つく)られた城という意味で、高野城のことをいい、この地域の人々は昔から今城と呼んでいます。 | |
海禅寺(かいぜんじ) | 海禅寺に伝わる「海禅寺縁起(かいぜんじえんぎ)」(守谷の領主、堀田正俊(ほったまさとし)が寄進(きしん)したもの)によると、平将門が紀州(きしゅう)の高野山にまねて建てたということです。 |
海禅寺縁起 海禅寺縁起を見てみましょう。 |
平将門城址(たいらのまさかどじょうし) |
平台山という丘の上に、平将門が建てたといわれています。周りは沼で、古城沼(こじょうぬま)と呼ばれていました。 守谷は、平将門の王城の地とされ、守谷城が相馬(そうま)の御所(ごしょ)と長い間語られてきました。しかし、実際は相馬氏代々の居城であったとされています。 現在、公園となっていますが、土塁跡(どるいあと)などに面影(おもかげ)を残しています。 |
守谷城址 守谷城址を見てみましょう。 |
妙見八幡社(みょうけんはちまんしゃ) | 平将門(たいらのまさかど)が霊夢(れいむ)を見て、城中の妙見郭(みょうけんくるわ)に移しまつったそうです。 | |
河獺弁天(かわうそべんてん) | 平将門(たいらのまさかど)が鬼門(きもん)避(よ)けにまつったそうです。鬼門とは、陰陽道(おんみょうどう)で邪悪(じゃあく)な鬼が出入りするとして嫌(きら)われていた方角で、北東を指します。人々はさまざまな工夫をして、鬼が出入りしないように鬼門を封(ふう)じていました。 | |
長龍寺(ちょうりゅうじ) | 平将門(たいらのまさかど)が守谷城主の時、建てたそうです。平将門の位牌(いはい)が伝えられており、「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門(ちょうりゅうじでんとくいれんざんだいぜんじょうもん)」とあります。 | 文化財 長龍寺の文化財を見てみましょう。 |
将門(まさかど)並木 | 守谷から北上する松並木の街道のことで、内裏(だいり)道や、将門並木と呼ばれています。 | |
愛宕(あたご)神社 | 平将門(たいらのまさかど)は、京都政権に対抗して、この守谷の地に東国政権をたてようとしました。そのとき守谷にも京都と同じような都をつくろうとして、京都の愛宕神社に似せて建てたそうです。愛宕という地名もそこから名づけられたと言われています。 | 文化財 愛宕神社の文化財を見てみましょう。 |
永泉寺(えいせんじ) | 平将門(たいらのまさかど)のほろんだ後、その家族や生き残った者たちが将門や影武者(かげむしゃ)の土偶(どぐう)をこの地にまつったのに始まる寺だそうです。 | 文化財 永泉寺の文化財を見てみましょう。 |
西林寺(さいりんじ) | 妙見八幡社(みょうけんはちまんしゃ)が守谷城中よりうつされたといわれています。 西林寺の住職(じゅうしょく)義鳳(ぎほう)と親しかった小林一茶(こばやしいっさ)が詠(よ)んだ俳句の中に、平将門(たいらのまさかど)に関するものがあります。 「梅さくや平親王の御月夜」(我春集 文化8年) |
西林寺(もりやマップ) |