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祭り・民間信仰・伝統行事など

更新日:2020年4月24日

 守谷は古くから農村地帯であったため、農耕に関する一般的な行事が現在でもいくつか残されています。それらの行事は、都市化の進展とともに失われつつありますが、なんとか後世に伝えていきたいものです。

あわんとり

 全国各地で左義長(さぎちょう)やどんど焼きと呼ばれるものです。子どもたちが家々を訪ねて集めたしめ縄やだるま、護符(ごふ)幣束(へいそく)、正月飾り等に火を放ちます。シノダケの先にモチを刺して、この火であぶって食べると風邪をひかないと言われています。毎年1月中に、地区ごとに行われている行事です。

あわんとり
ひがし野地区

おびしゃ

 オビシャは年頭に行われる行事の一つで、市内では成人の日前後に執り行われています。御奉射、御備射、御歩射などの漢字が当てられ、民俗学では、的を弓矢で射てその年の農作物の豊凶など神意を占う「弓神事」と解されています。
 しかし、的には3本足の(からす)が描かれているものがあることから、弱った太陽(古来、3本足の烏は太陽の象徴とされてきた)を射て、太陽を再生させるための儀礼だとも考えられます。
 いずれにしても、弓矢で的を射ることがオビシャの根幹であったはずですが、現在ではその形式が薄れ、地区の人々が寄り合い、会食をすることに重点が移っているようです。

おびしゃ
上町

庚申講

 庚申(かのえさる)の日に神仏を(まつ)って、徹夜をする行事のことです。庚申の日の夜になると、人間の体内に住む三尸(さんし)の虫が天帝に悪事を報告しに行くと信じられ、寝ずに夜を明かすことでこれを防ごうとしたと伝えられます。また、庚申様は月のモノや出産の汚れを嫌うというので、主に男性がその行事に当たり、女性は飯の準備や片づけが役目だったそうです。
 守谷でも古くは盛んに行われていたようで、「守谷の石造物」には27基の庚申塔と庚申の本尊である青面金剛の石塔18基の所在が報告されています。
 さて、ここでは野木崎の新山地区で行われている庚申講を紹介します。新山の講は現在6人で構成され、内容は会食を中心とした親睦会となっています。庚申の日にはこだわらず金曜日か土曜日の申の日晩に行われ、今では徹夜することはないとのことです。会場に掲げる青面金剛の掛け軸の裏には、嘉永2年(1849年)に7代目兵右衛門が購入したと書かれています。
 青面金剛は、三尸を押さえる神とされています。新山地区の掛け軸では、二童子四鬼神を従え、足元に邪鬼を踏みつけ、6本腕で法輪・弓・矢・剣・錫杖(しゃくじょう)・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれています。

とうろうまつり

 守谷近辺の地域で、集落ごとの守り神(薬師様・稲荷様・大日様等)に向かって、家内安全・五穀豊穣を祈願する祭りです。灯籠(とうろう)を張り替え、酒や山海のものを供物として捧げ、太鼓と笛によるお囃子が奉納されます。同時に太鼓のリズムに合わせての灯籠踊りも盆踊りとして行われていましたが、現在は消滅しつつあります。

廿三夜講

 講中の人々が集まり特定の月齢の月を拝む「月待ち」は、江戸時代には全国の村々で盛んに行われていたようです。そして、数多くある月待ちの中で最も人気のあったのが、二十三夜講です。
 二十三夜の月は、真夜中頃に東の空から昇ってくるので、会食などしながら夜更けまで起きている点では、庚申講(こうしんこう)に似ています。しかし、庚申講が男性だけで行われるのに対し、二十三夜講は女性を中心としていた点が大きく違います。
 野木崎にある廿三夜尊は、地元の人々から「さんやさま」と呼ばれ親しまれてきました。毎年8月23日に祭礼が行われており、社の縁の下には、二十三夜講の本地仏である勢至菩薩(せいしぼさつ)の石塔が造立されています。

八坂神社例大祭(祇園祭)

 毎年7月の最終土曜日に行なわれる八坂神社の例大祭(祇園祭)は、守谷を代表する夏祭りです。神輿(みこし)山車(だし)が巡行し、約3万人の人出で賑わいます。また、この祭りには17本もの(のぼり)が立てられ、幟祭りとも呼ばれています。幟は神様の依代(よりしろ)、つまり天から降りてくるときの目印とされているほか、全体を弓に見たて、魔を(はら)うものだという説もあります。
 祭神のスサノオノミコトは、神仏習合では牛頭天王(ごずてんのう)とされ、(やく)除け、病気除けの神様として知られています。

田螺(たにし)不動

 「やまこ味噌(みそ)」で知られる大山新田の金剛家は、もともとは「龍光院(りゅうこういん)」というお寺でしたが、明治初期に全焼してしまったため、 (こうじ)屋を始めたということです。このとき焼失を免れた不動明王像1体が、今も大切に安置されています。
 この像は俗に「田螺不動」と呼ばれるもので、金剛家では糀屋になってからも「ご本尊が田螺不動なのだから、タニシは食べてはいけない」という教えが固く守られていました。
 この田螺不動の起源は、新潟県新発田市にある菅谷寺(かんこくじ)菅谷(すがたに)不動尊のようです。菅谷寺は真言宗醍醐(だいご)派の寺で、本尊の菅谷不動尊は特に眼病に霊験あらたかとされており、田螺不動の由来として次のような話が伝えられています。

  • 建長5年(1253)春、落雷により伽藍(がらん)は焼失したが、不動明王像だけは「みたらしの滝」にいるタニシが像の体に張り付いて、まったく焼けていなかった。それ以来、この地のタニシは半身が焦げたように黒くなった。一方人々は、タニシはご本尊を守った明王の使いとして、以後口にしなくなった。

 また、千葉県松戸市にある医王寺(いおうじ)(真言宗豊山派)には、つぎのような話が伝えられています。

  • 寛永年間(1624~1644)、越後の国新発田の菅谷寺から布教のために訪れた僧侶が、本尊の分身を奉納した。ある日、落雷のため不動明王の(ほこら)は消失したが、焼け跡から掘り出された不動明王像には無数のタニシが張り付いて、本体は無事であった。それ以来、田螺不動と呼ばれるようになった。盲目の娘がこの不動明王に願をかけたところ、満願の日に不動滝で目を洗うと、水面に不動明王の姿が映るのが見えた。その後娘の目が見えるようになったことから、「姿見不動」とも呼ばれた。

 ところで、病気平癒(へいゆ)、特に眼病にご利益があるとされるのは、一般的には薬師如来とされています。明治初期に廃寺となった医王寺(野木崎辺田前地区)の本尊「寅薬師如来」を安置した正安寺(しょうあんじ)(野木崎辺向崎地区:天台宗)は、眼病にかかった人の参拝で大変賑わったということです。龍光院と医王寺という、眼病に功徳のある仏像を(まつ)っていた二つの寺が、同じ頃に廃寺となったのには、なにか因縁めいたものが感じられます。 
 一般公開はしておりません。見学はくれぐれもご遠慮願います。 

お問い合わせ

教育委員会生涯学習課
〒302-0198 茨城県守谷市大柏950番地の1
電話:0297-45-1111(代表)
ファクス:0297-45-5703

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