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平将門伝説

更新日:2022年8月31日

平将門たいらのまさかど伝説について

平将門たいらのまさかどは平安時代(794年から1185(1192)年の約390年間)の中期に関東で活躍かつやくした武将ぶしょうです。

関東には平将門の伝説が数多くあり、私たちの住む守谷にも多くの伝説が残されています。

ここでは、守谷に伝わる将門伝説を紹介します。

七騎塚しちきづか

平将門たいらのまさかどには七人もの影武者かげむしゃがいたといわれており、守谷の海禅寺かいぜんじには、平将門と七人の影武者の供養くようのために建てられたとうがあります。

指定文化財の保護と一覧(海禅寺)

御霊山ごりょうやま

天慶てんぎょう年間、平将門たいらのまさかどは七人の影武者かげむしゃをたてて、敵の目をくらまし勝利をあげていましたが、とうとうたれてしまいました。

当時の住民たちは影武者をかわいそうに思い、現在の大木の丘の上にまとめてお墓をつくりました。

そうして、御霊山と呼ばれるようになったそうです。

鈴塚すずか

平将門たいらのまさかどは関東で、藤原純友ふじわらのすみとも瀬戸せと ない かいで乱を起こしました。

この二つをまとめて承平じょうへい 天慶てんぎょうの乱といいます。

この二つの乱はほぼ同時期に起きたので、二人が手を組んでいたという話があります。

平将門が兵を挙げる前に、藤原純友ははるばる将門の元を訪れたそうです。

そして大鈴を埋めて塚をつくり、おたがいに戦の勝利を祈ったといわれています。

寅薬師如来とらやくしにょらい

平将門たいらのまさかど太公望たいこうぼう(中国古代王朝の周の政治家:呂尚りょしょうの別名)の用いた「とらまき」を夢のお告げで手に入れました。

そこで、王城のとらの方(東北東かやや北)に御堂みどうを建てて、寅薬師をまつりました。

現在、正安寺しょうあんじに寅薬師如来があります。

彫刻(寅薬師如来)

赤法花あかぼっけ

平将門たいらのまさかどが城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にあるかべが、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。

板戸井いたどい

承平じょうへい天慶てんぎょう(931年から946年)のころ、平将門たいらのまさかどが東国に兵をおこしたとき、相馬地方に七つの井戸を掘って、万が一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っています。

その一つがこの地の井戸といわれており、そこから板戸井という地名が付けられたと伝えられます。

隠し穴かくしあな

承平じょうへい年間、平将門たいらのまさかどが守谷に城を建てたとき、万が一の場合に備え、本城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしたそうです。

その抜け穴の出口をとし ぐちといいました。

それが乙口おとぐちに変わり、さらにそれがなまって乙子おとごに変化し、地名となったそうです。

興世王おきよおうの分城

天慶てんぎょう元年(938年)平将門たいらのまさかどは高野に興世王の分城を建て、今城いまんじょと名づけたそうです。

今城とは、いま つくられた城という意味で、高野城のことをいい、この地域の人々は昔から今城と呼んでいます。

海禅寺かいぜんじ

海禅寺に伝わる「海禅寺縁起かいぜんじえんぎ」(守谷の領主、堀田正俊ほったまさとし寄進きしんしたもの)によると、平将門が紀州きしゅうの高野山にまねて建てたということです。

古文書(海禅寺縁起)

平将門城址たいらのまさかどじょうし守谷城址もりやじょうし

平台山という丘の上に、平将門が建てたといわれています。

周りは沼で、古城沼こじょうぬまと呼ばれていました。

守谷は、平将門の王城の地とされ、守谷城が相馬そうま御所ごしょと長い間語られてきました。

しかし、実際は相馬氏代々の居城であったとされています。

現在、公園となっていますが、土塁跡どるいあとなどに面影おもかげを残しています。

妙見八幡社みょうけんはちまんしゃ

平将門たいらのまさかど霊夢れいむを見て、城中の妙見郭みょうけんくるわに移しまつったそうです。

河獺弁天かわうそべんてん

平将門たいらのまさかど鬼門きもん けにまつったそうです。

鬼門とは、陰陽道おんみょうどう邪悪じゃあくな鬼が出入りするとしてきらわれていた方角で、北東を指します。

人々はさまざまな工夫をして、鬼が出入りしないように鬼門をふうじていました。

長龍寺ちょうりゅうじ

平将門たいらのまさかどが守谷城主の時、建てたそうです。

平将門の位牌いはいが伝えられており、「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門ちょうりゅうじでんとくいれんざんだいぜんじょうもん」とあります。

指定文化財の保護と一覧(長龍寺)

将門まさかど並木

守谷から北上する松並木の街道のことで、内裏だいり道や、将門並木と呼ばれています。

愛宕あたご神社

平将門たいらのまさかどは、京都政権に対抗して、この守谷の地に東国政権をたてようとしました。

そのとき守谷にも京都と同じような都をつくろうとして、京都の愛宕神社に似せて建てたそうです。

愛宕という地名もそこから名づけられたと言われています。

指定文化財の保護と一覧(愛宕神社)

永泉寺えいせんじ

平将門たいらのまさかどのほろんだ後、その家族や生き残った者たちが将門や影武者かげむしゃ土偶どぐうをこの地にまつったのに始まる寺だそうです。

指定文化財の保護と一覧(永泉寺)

西林寺さいりんじ

妙見八幡社みょうけんはちまんしゃが守谷城中よりうつされたといわれています。

西林寺の住職じゅうしょく 義鳳ぎほうと親しかった小林一茶こばやしいっさんだ俳句の中に、平将門たいらのまさかどに関するものがあります。
「梅さくや平親王の御月夜」(我春集 文化8年)

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お問い合わせ

教育委員会生涯学習課
〒302-0198 茨城県守谷市大柏950番地の1
電話:0297-45-1111(代表)
ファクス:0297-45-5703

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