市の歴史
更新日 令和6年1月23日
概要(昭和30年3月1日まで)
守谷の由来
守谷の地名の起こりは、日本武尊が東征のときにこの地を通り、うっそうたる森林が果てしなく広がっているのを見て嘆賞せられ、「森なる哉」といわれました。
これを漢訳して音読し「森哉」となったという説があります。
また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深くして守るに易き地ということから、守るに易き谷、転じて「守谷」となったという説がありますが、このことについては、はっきりしたことは判明していません。
しかし、そのころの守谷は森がうっそうと茂り、その両側には入江が深く入り込んで、早くから人々が集まったところであったと思われます。
近世の守谷
近世の守谷町成立の基礎が築かれたのは、土岐山城守定政によってでした。
定政は、豊臣秀吉の後北条氏征伐により、後北条氏と運命を共にして没落した相馬氏の遺領に、天正18年(1590)守谷1万石の領主として封ぜられました。
初代守谷城主として入城した定政は、遺領の復旧を図ると共に、城下町としての町づくりに努めたため、守谷は周辺の村落とは異なった環境を呈し、それはやがて「町」を形成する基盤となったのです。
それから天和元年(1681)最後の城主酒井忠挙が転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみましたが、その後関宿藩久世氏の領地になり、城下町でなくなってからは衰微して周辺の農村と全く同じような環境となってしまいました。
守谷町の誕生
明治元年(1868)、王政復古による明治新政府の発足後、下総、葛飾県に、そして明治4年(1871)廃藩置県施行後、印旛、千葉県の管轄下となり、明治8年茨城県の管轄下に編成され、明治22年の町村制施行を受けて、現在の守谷市を構成する旧守谷町・高野村・大野村・大井沢村の1町3か村が発足しました。
大正2年11月1日に常総鉄道が開通。水運に変わり運輸交通の柱となり、文化・経済面での発展をもたらしました。
そして、昭和30年3月1日、当時の守谷町・高野村・大野村・大井沢村の1町3か村が合併して「守谷町」が誕生しました。
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