酪農の歴史

更新日 令和6年1月23日

写真:利根川での放牧の様子

守谷市はベッドタウンとして発展していますが、宅地化には守谷市の酪農と関係があります。
戦後に守谷が開拓され、久保ケ丘・松前台の周辺や立沢・百合ケ丘周辺、大木地域に牧場ができました。その後、久保ケ丘・松前台周辺の牧場は住宅地となり、立沢・百合ケ丘周辺の牧場は、ミルク工房もりやが整備されました。そして大木地域では、今も酪農が続いています。

戦前

塩根川向上会

地図:山形県真室川町の位置

戦前の山形県最上郡旧及位村(現・真室川町)には、「塩根川向上会」がありました。塩根川向上会は、昭和3年に塩根川地区の青年・佐藤孝治氏らの呼びかけで結成されました。旧制中学や農学校の卒業生もおり、大正デモクラシーなどの影響を受けたといいます。弁論・読書・演芸の他、戦時中は出征兵士の送別や留守家族の支援など行っていました。
戦時体制にあった日本の方針に沿い、各地の青年団は青年の動員、満州などの開拓勧誘などの場になり、塩根川向上会(初代会長・佐藤孝治氏)も昭和7年10月、いち早く満州(中国東北部)の開拓団に参加しました。その後「大八洲開拓団」を結成し、満州で開拓団の村を経営しました。

大八洲開拓団

昭和14年、当時の満州国三江省永豊鎮で 弥栄村と名付けられた地に、満州国の開拓として大八洲開拓団が入植しました。

地図:弥栄村の位置
弥栄村の位置図
地図:弥栄村の開拓図
弥栄村の開拓図
写真:満州の開拓の様子
満州の開拓の様子

守谷の開拓

戦後の開拓

昭和20年、第二次世界大戦直後の食糧増産と戦災者、引揚者、復員軍人等の就業確保等を目的として、国は「緊急開拓事業実施要領」を決定しました。
そして昭和21年、「自作農創設特別措置法」の制定がされました。このような状況下、利根川中流部の菅生沼遊水地と田中遊水地が、緊急開拓事業の用地として開墾の対象となるとともに、満州から引き揚げてきた大八洲開拓団は、菅生村、大井沢村にまたがる菅生沼地区に入植することが決まり、開墾が始まりました。

写真:開墾前の利根川の河川敷
開墾前の利根川の河川敷

大八洲開拓農業協同組合

地図:常総市・守谷町の開拓
常総市・守谷町の開拓

昭和22年に「大八洲開拓組合」が設立され,同年に「農業協同組織法」が制定されると、昭和23年に「大八洲開拓農業協同組合」となりました。
開拓地区は、大きくは菅生沼地区と大井沢地区に分かれます。

菅生沼地区
菅生沼地区は、調節池にあります。利根川は、明治42年に中流部の改修が開始され、昭和13年に築堤工事が開始されました。第二次世界大戦による築堤の中断はあったものの、緊急開墾を前提に建設されました。堤防が完成する昭和30年までの間、利根川と鬼怒川が増水する度に地区内に濁流が溢れる常習水害地であり、また、完成した堤防には調節池としての越流堤があるため、河川が増水すると水害が生じる地域となっています。

大井沢地区
大井沢地区は、民有平地林及び原野を緊急開拓に基づく未墾地開放により、政府が民間から買収し、小団地補助開墾地区として、昭和24年に開墾建設が進められた地区です。菅生沼地区とは対照的で、水が少ない干ばつ地域での開墾、農業となりました。

写真:菅生沼地区の水害
菅生沼地区の水害
写真:大井沢地区のかんがい
大井沢地区のかんがい

大井沢地区大原農場

地図:大井沢地区大原農場
大井沢地区大原農場
写真:大井沢地区大原農場の比較
大井沢地区大原農場の1960年代と2015年の比較

大井沢地区素住台農場

地図:大井沢地区素住台農場
大井沢地区素住台農場
写真:大井沢地区素住台農場の比較
大井沢地区素住台農場の1960年代と2015年の比較

菅生沼地区板戸井農場

地図:菅生沼地区板戸井農場
菅生沼地区板戸井農場
写真:菅生沼地区板戸井農場の比較
菅生沼地区板戸井農場の1960年代と2015年の比較

菅生沼地区流作農場

地図:菅生沼地区流作農場
菅生沼地区流作農場
写真:菅生沼地区流作農場の比較
菅生沼地区流作農場の1960年代と2015年の比較

菅生沼地区浅間山農場

地図:菅生沼地区浅間山農場
菅生沼地区浅間山農場
写真:菅生沼地区浅間山農場の比較
菅生沼地区浅間山農場の1960年代と2015年の比較

木野崎地区柳耕地

地図:木野崎地区柳耕地
木野崎地区柳耕地
写真:木野崎地区柳耕地の比較
木野崎地区柳耕地の1960年代と2015年の比較

守谷の酪農の始まり

写真:利根川の乳牛の群れ

開墾した畑は、堆肥による土質改善が急務であるとともに、満洲開拓の頃から畜産業を経験したことや農耕や運搬も畜力に頼る必要がありました。そこで、昭和22年に家畜用として馬牛1頭と乳牛1頭を、茨城県農業会の斡旋で受入れたことが始まりでした。
昭和26年には、融資を受けて乳牛15頭を導入し、牛乳の生産とともに、守谷駅近くの借地に牛乳処理施設を設置、販売店の権利を譲り受けた取手市白山前の牛乳販売所において釜で沸かした牛乳をサイダー瓶に詰めて売捌きを始めました。
将来の酪農専業農家として自立するため、昭和34年から本格的に乳牛導入を計画し、昭和45年までの間に融資によって、成牛、育成あわせて236頭を導入、牛舎建築とともに乳牛の増殖を図りました。そして、昭和40年代後半には成牛600頭に達しました。
また、飼料を購入する資金が乏しかった当時、流作の堤外の河川敷で採草放牧地として使用していました。これは現在でも、採草地として使用し続けています。
昭和50年代後半には、組合の生乳生産は4000トンから5000トンに増えて乳価も上昇したため、開拓の目標とした酪農専業農家として自立経営を達成しました。

写真:建築された牛舎

移転

大井沢地区素住台農場

写真:移転前の素住台

守谷町の都市化により、ベッドタウンとして日本住宅公団が住宅造成計画を進めることとなりました。
そこで、大井沢地区に入植した組合の素住台地区組合員21戸の生活営農の基盤全域と大原地区組合員の一部を含んだ農地(現在の久保ケ丘や松前台の周辺)について、住宅造成用地として提供する協議が昭和45年に合意し、守谷町都市開発同意書に調印、成立しました。昭和47年に住居の移転を完了しました。

流作農場の移転

写真:鬼怒川の土手に避難する牛
鬼怒川の土手に避難する牛

流作農場は利根川と鬼怒川の合流点で、菅生調整池に位置しているため、これまで度々水害に見舞われていました。このため、当時の建設省や茨城県及び守谷町と協議を重ねた結果、人命尊重の観点から住宅は町内の調整池外に移転し、平成15年に酪農施設用地への盛土工事が始まりました。その結果、現在の酪農団地となっています。

写真:牛舎予定地への盛土
牛舎予定地への盛土
写真:建築中の堆肥舎
建築中の堆肥舎

写真:牛舎とミルクパーラー
牛舎とミルクパーラー
写真:牛舎の中
牛舎の中

出典元

事務所

地図:事務所の位置
事務所の位置図

所在地:茨城県守谷市板戸井2175

このページに関するお問い合わせ

生活経済部 経済課
〒302-0198 茨城県守谷市大柏950番地の1
電話:0297-45-1111 ファクス番号:0297-45-5703
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。