地名の由来

更新日 令和6年1月23日

皆さんは、守谷の地名の由来を知っていますか?

地名の由来を知ることで、守谷の歴史や、その土地の昔の姿を知ることができます。

守谷にはどんな地名があるのか、そしてそこにはどんな歴史があるのか探ってみましょう。

守谷の由来

守谷という地名の由来には、いくつか説があります。

日本武尊がこの地に来たとき、森林が果てしなく広がっている様子を見て、感動して「森なる哉」と言ったそうです。漢訳すると「森哉」となり、地名の由来であるといわれています。

また、平将門がこの地を築いたとき、丘が高く、谷が深かったので、守るに易い谷であるということから、守りやすい谷、転じて「守谷」となったともいわれています。

ほかにもいくつか説があるので、調べてみましょう。

守谷市内の地名の由来

市内にはどのような地名があるのでしょうか。

また、自分の住んでいる地名には、どんな歴史が隠されているのでしょうか。

赤法花

平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。

足軽町

南守谷駅付近。

土岐氏が守谷の領主であったころ、土岐氏の足軽が集団で住んでいた所であるといわれています。

愛宕

平将門は、京都政権に対抗して、この守谷の地に東国政権をたてようとしました。

そのとき守谷にも京都と同じような都をつくろうとして、京都の愛宕神社に似せて建てたそうです。

愛宕という地名もそこから名づけられたと言われています。

板戸井

承平、天慶(931年から946年)のころ、平将門が東国に兵をおこしたとき、相馬地方に七つの井戸を掘って、万が一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っています。

その一つがこの地の井戸といわれており、そこから板戸井という地名が付けられたと伝えられます。

大柏

同地区にある西光寺の山号、「大柏山」に由来するものと考えられます。

大木

大円寺にある大きなムクノキから名づけられたと言われています。

大山新田

江戸市街の大半を焼き尽くした「明和の大火」のとき、幕府はその復興のため関東全域の大名に、木材を差し出すよう命じました。

大山村を領地としていた田安家でも幕府の要請に応じ、大山村の山林をすべて伐採して江戸に運び、その跡地に新田を開拓したそうです。

それ以来いらい大山村を大山新田と呼ぶようになったと言われています。

乙子

承平年間、平将門が守谷に城を建てたとき、万が一の場合に備え、本城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしたそうです。

その抜け穴の出口を落とし口といいました。

それが乙口に変わり、さらにそれがなまって乙子に変化し、地名となったそうです。

また、万葉集の歌人の犬養浄人が、末っ子を非常にかわいがり、成人になっても心配なため、近くのこの地に家を建てて生活させたそうです。

昔の人は末っ子を乙子とも言ったとのことで、後に当地区を乙子と呼んだともいわれています。

九左衛門屋敷

坂町清水線と郷州沼崎線の交差点付近です。

土岐氏の家老「井上九左衛門」の屋敷があった場所と伝えられています。

久保ケ丘

以前にあった、〇〇久保という小字名から名づけられました。

けやき台

けやきの木が多く、その土地のシンボルのような存在だったことから、名づけられました。

高野

この地の地形を、和歌山県の高野山に見立てて、平将門が名付けたという伝説があります。

御所ケ丘

以前は御所台と呼ばれていました。

今から約430年前、一時古河公方足利義氏をこの守谷へ迎え入れ、住まわせようとした「御所」があったといわれており、そこから名づけられたそうです。

小屋場

北守谷公民館近くの「小屋場樋管」付近です。

江戸時代初期、鬼怒川の開削かいさく工事を行ったときに、工事関係者の小屋を建てた跡だということです。

小山

平将門の東国合戦の時に、老臣増田堅物が砦を構え、その地を古山と呼びました。

それが、小山の地名の由来となっています。

新屋

足軽町のとなり。

堀田氏が領主であったころ、新たに土地を拓いて士族の屋敷にしたとのことです。

鈴塚

平将門は関東で、藤原純友は瀬戸内海で乱を起こしました。

この二つをまとめて承平天慶の乱といいます。

この二つの乱はほぼ同時期に起きたので、二人が手を組んでいたという話があります。

平将門が兵を挙げる前に、藤原純友ははるばる将門の元を訪れたそうです。

そして大鈴を埋めて塚をつくり、おたがいに戦の勝利を祈ったといわれています。

また、五十塚古墳群という古代遺跡がありました。

五十とは、数が多くあることを意味おり、多くある塚があたかも鈴なりのように連なっているので、鈴塚という地名が生まれたとも考えられています。

立沢

「下総国旧事考」によると、竜沢寺という寺の名前が元になったということです。

番場

小林医院から守谷小学校前までの直線状の通りです。

その昔、守谷城内の武士が乗馬の練習をしたことから、”馬場”と呼んでいたのが、いつの頃からか”ばんば”となまって呼ばれるようになりました。

松ケ丘

昔は松林が続く土地で、松ケ丘と呼ばれる団地があり、そこから名づけられました。

松並

松並木がその地のシンボルのような存在だったことから、名づけられました。

松前台

以前にあった、松前という小字名から名づけられました。

薬師台

以前にあった、薬師堂という小字名から名づけられました。

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 生涯学習課
〒302-0198 茨城県守谷市大柏950番地の1
電話:0297-45-1111 ファクス番号:0297-45-5703
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。