平将門伝説
更新日 令和6年1月23日
平将門は平安時代(794年から1185(1192)年の約390年間)の中期に関東で活躍した武将です。
関東には平将門の伝説が数多くあり、私たちの住む守谷にも多くの伝説が残されています。
ここでは、守谷に伝わる将門伝説を紹介します。
七騎塚
平将門には七人もの影武者がいたといわれており、守谷の海禅寺には、平将門と七人の影武者の供養のために建てられた塔があります。
御霊山
天慶年間、平将門は七人の影武者をたてて、敵の目をくらまし勝利をあげていましたが、とうとう討たれてしまいました。
当時の住民たちは影武者をかわいそうに思い、現在の大木の丘の上にまとめてお墓をつくりました。
そうして、御霊山と呼ばれるようになったそうです。
鈴塚
平将門は関東で、藤原純友は瀬内海で乱を起こしました。
この二つをまとめて承平天慶の乱といいます。
この二つの乱はほぼ同時期に起きたので、二人が手を組んでいたという話があります。
平将門が兵を挙げる前に、藤原純友ははるばる将門の元を訪れたそうです。
そして大鈴を埋めて塚をつくり、おたがいに戦の勝利を祈ったといわれています。
寅薬師如来
平将門が太公望(中国古代王朝の周の政治家:呂尚の別名)の用いた「虎の巻」を夢のお告げで手に入れました。
そこで、王城の寅の方(東北東かやや北)に御堂を建てて、寅薬師をまつりました。
現在、正安寺に寅薬師如来があります。
赤法花
平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、赤々とぼけて見えたので、「あかぼっけ」と呼ばれるようになったそうです。
板戸井
承平、天慶(931年から946年)のころ、平将門が東国に兵をおこしたとき、相馬地方に七つの井戸を掘って、万が一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っています。
その一つがこの地の井戸といわれており、そこから板戸井という地名が付けられたと伝えられます。
隠し穴
承平年間、平将門が守谷に城を建てたとき、万が一の場合に備え、本城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしたそうです。
その抜け穴の出口を落とし口といいました。
それが乙口に変わり、さらにそれがなまって乙子に変化し、地名となったそうです。
興世王の分城
天慶元年(938年)平将門は高野に興世王の分城を建て、今城と名づけたそうです。
今城とは、今造られた城という意味で、高野城のことをいい、この地域の人々は昔から今城と呼んでいます。
海禅寺
海禅寺に伝わる「海禅寺縁起」(守谷の領主、堀田正俊が寄進したもの)によると、平将門が紀州の高野山にまねて建てたということです。
平将門城址(守谷城址)
平台山という丘の上に、平将門が建てたといわれています。
周りは沼で、古城沼と呼ばれていました。
守谷は、平将門の王城の地とされ、守谷城が相馬の御所と長い間語られてきました。
しかし、実際は相馬氏代々の居城であったとされています。
現在、公園となっていますが、土塁跡などに面影を残しています。
妙見八幡社
平将門が霊夢を見て、城中の妙見郭に移しまつったそうです。
河獺弁天
平将門が鬼門避けにまつったそうです。
鬼門とは、陰陽道で邪悪な鬼が出入りするとして嫌われていた方角で、北東を指します。
人々はさまざまな工夫をして、鬼が出入りしないように鬼門を封じていました。
長龍寺
平将門が守谷城主の時、建てたそうです。
平将門の位牌が伝えられており、「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門」とあります。
将門並木
守谷から北上する松並木の街道のことで、内裏道や、将門並木と呼ばれています。
愛宕神社
平将門は、京都政権に対抗して、この守谷の地に東国政権をたてようとしました。
そのとき守谷にも京都と同じような都をつくろうとして、京都の愛宕神社に似せて建てたそうです。
愛宕という地名もそこから名づけられたと言われています。
永泉寺
平将門のほろんだ後、その家族や生き残った者たちが将門や影武者の土偶をこの地にまつったのに始まる寺だそうです。
西林寺
妙見八幡社が守谷城中よりうつされたといわれています。
西林寺の住職 義鳳と親しかった小林一茶が詠んだ俳句の中に、平将門に関するものがあります。
「梅さくや平親王の御月夜」(我春集 文化8年)
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