古文書
更新日 令和6年1月23日
禁制文書
天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉の大軍が小田原城の北条氏政、氏直父子を征伐するため関東に進攻しましたが、そのとき豊臣方の大将となった浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋の連名でだされた「禁制文書」が長龍寺に残されています。
その内容は、「軍兵が乱暴狼藉をしたり、みだりに放火をしたり、また、寺に対して無理難題を申し付けたり、畑の作物を理由なく刈り取ってはならない。もし、この禁制にそむく者があれば、厳重に処罰する」というものでした。

徳川家康寄進状
徳川家康寄進状は、天正19年(1591年)11月、徳川家康が高10石の土地を長龍寺に領知として寄進するに際し発給した朱印状です。
朱印の印文は「福徳」で、徳川家康が永禄12年(1569年)から文禄2年(1593年)の間に使用した朱印です。
天正18年、徳川家康は豊臣秀吉の命により関東へ入国し、江戸城を本拠としました。
以後、関東の寺社に対して寺社領を寄進していきましたが、その初見が天正19年11月日の寄進であり、同日付の寄進状が数多く発給されており、その中の一つです。

染谷家文書
赤法花の染谷家は代々名主を勤めた家で、名主役として地方記録の保存に努力されていました。
特に「御用留」と呼ばれるものは、享保10年(1725年)から明治16年(1883年)に至るまで158年間にわたり、その冊数は110余冊にも及び、江戸時代の地方行政を研究する上には貴重な資料となるものです。
なお、現在は茨城県立歴史館に寄託してあります。

海禅寺縁起
この縁起は寛文年間(1661年から1672年)、守谷一万石の領主となった堀田備中守正俊しが寄進したものです。
この縁起によれば、将門は延長8年(930年)に京都から相馬御厨の下司(徴税役)となって帰り、承平元年(931年)父良将の供養のために紀州の高野になぞらえて地名を高野と名付け、海禅寺を建立したとあります。
なお、これを寄進した堀田正俊は、天和元年(1681年)1月に大老職に任ぜられましたが、貞享元年(1684年)8月、政治上の意見を異にする従弟の若年寄稲葉正休のため、江戸城中で殺されてしまいました。

沼崎山畧縁起
沼崎山畧縁起は、永泉寺の歴史を伝える古文書です。
縦26センチメートル横276センチメートルの軸仕立てで、近世後期の作と推測されます。
この縁起には、永泉寺は平将門の古跡であり、将門が天慶の乱(939年から940年)に負けたおり、自分に似せて作った土偶を安置し、堂宇を建てて代々これを守ってきたことが記されています。
守谷町史には、これより前の延暦元年(782年)の創建とありますが、これは天慶の乱以後に再建されたと考えられます。

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