工芸品
更新日 令和7年8月8日
熟鉄製海老
本品は薄鋼と細鋼を用いて製作したもので、金属工芸品として精緻巧妙を極めています。
作者は明珍宗矩といい、もと土浦藩に仕えていた甲冑師です。
元来、明珍家は室町時代に鎧・兜・鍔などを作る家柄で、その祖明珍信家以来、甲冑師として武家の間に重用されていました。
その後、明珍家は諸派に分かれ、いずれも明珍の姓を用いて全国に分布し、江戸時代には各藩に仕えて武具の製作をしていました。
この作者宗矩もまたその一人でしたが、明治維新後武具製作の仕事が衰退したため、甲冑を作る手法を活用してこの工芸品を制作しました。

鰐口
愛宕神社所有の青銅製鰐口は元和7年(1621)11月、当時の守谷領主土岐内膳介頼行が荒廃していた愛宕神社の社殿を再建したとき、その家臣井上九左衛門、賀藤久太夫の両名が寄進したものです。
鰐口の両面の中央には蓮唐草文を鋳出し、それを囲んで二条の圏線をめぐらし、さらに約2.5センチメートルの間隔をおいて三条の圏線を描き、また、同じ間隔をおいて外縁をなす一条の圏線があります。
また、鰐口には次のような文字が刻み込まれています。
鍔口に刻まれた文字
下総北相馬之郡森屋郷 別当什蔵院
干時元和七年辛酉霜月廿四日
愛宕山 鰐口
大旦那土岐内膳介御内
井上九左衛門、同賀藤久太夫
内森屋郷大工、小磯新左衛門信吉

喚鐘
銘文からは、嘉永2年(1849)に雲天寺の檀信徒の寄進を受け、「西村和泉守」により鋳造されたことがわかります。
「西村和泉守」は、代々その名を受け継ぎ、江戸時代・17世紀より近代に至る、長い期間にわたって活躍した鋳物師です。本作は第九代西村和泉守の作と考えられ、銘文と彼の生年を照らし合わせると、彼が数え16歳で手掛けた作であり、彼の最初期の作であると位置付けられます。
本作は、第二次世界大戦の金属供出により接収され、長らく行方がわかりませんでした。しかし、令和元年(2019)にネットオークションに出品されていることがわかり、縁あって同寺に戻ってきたものです。第九代西村和泉守の最初期の作であるとともに、インターネットという現代的な方法を交えつつ、元来の所蔵寺院に戻るという奇縁も含め、貴重な作であると評価されます。
- 所蔵:雲天寺(守谷市本町)
- 一般公開:応相談
銘文
池の間
下総国相馬郡/守谷町/八幡山雲天寺/三十四主/岳誉代/寄府/檀方中/嘉永二年己酉(1849)/十月吉日
縦帯
江戸住/西村和泉守

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