史跡
更新日 令和6年1月23日
守谷城址
この城は平将門の居城だったという伝承がありますが、実は相馬氏の城でした。
源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子師常が相馬氏を継ぎ、ここに築城したという説が有力視されていますが、史料がなく断言することはできません。
城は古城沼(守谷沼)に突き出た台地上に築かれ、本郭を中心に二郭、三郭をもって構成されています。
その要害堅固たることは、中世期における城郭としてはまれにみるものです。

一里塚
赤法花の一里塚については、染谷家の文書に文政8年(1825)、「当村の内壱里塚壱ヶ所てしこ代と申す所に亥の方塚弐ツ松植え御座候」とあります。
この塚の築造年代は明らかではありませんが文政8年以前であることは確実で、現在は庚申塚と称し、塚の頂には庚申塔のほか数基の石造物が建立されています。
一里塚を設置した道路は、江戸時代これを笠間街道と称し常陸国笠間に通じる脇往還でした。
脇往還とは、本街道に対する支街道のことで、関東地方ではこの街道をはじめ水戸街道、佐倉街道などが挙げられます。

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